下林素光

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下林素光
明治18年(1885)ー昭和15年(1940)
明治18年10月26日、熊本市七軒町に生まれる。本名は繁夫。
高等小学校の頃から文章と絵に興味を深くし、内山容湖の門に入り手ほどきを受けた。
中学校卒業後、東京美術学校日本画家に進み、寺崎広業、結城素明らに学んでいる。
在京中は有斐学舎(熊本出身者の学生寮)に寄宿。同校卒業と同時に福岡県の中学校の図画教師として教員生活のスタートを切る。
一方で、古墳の調査の力を注ぎ、母校熊本県立中学済々黌に転じた大正三年から本格的に県内の古墳関係の調査研究の乗り出し、下林のライフワークとして数々の業績を残している。
因みに、この考古学への動機は、美術学校時代の奈良研修旅行に遡るが、自筆の年譜によれば「積算性の懇篤なる説明と、熱心なる教示にて、古美術及び史跡の真價を知り、大いに考古学に興味を思えゆるに至る」とある。
一方画業の面では、作品の中央への発表はほとんどなかったといってよく、専ら熊本で開かられていた「九州美術展覧会」への発表にとどまった。
画家としては、美術学校卒業後110点余を制作していたことが、下林自身の記録により判明しており、大和絵や花鳥図を専らとしていたことが知られる。
なかで、昭和6年熊本で開かれた陸軍大演習の折はその案内図的な《行幸路線図巻》を制作し、また天皇の済々黌行幸にあたっては、事前に福岡に旅行、袖ヶ浦、筑後川を訪ね中世菊池一族の足跡を取材、その歴史画題に因んだ作品を展覧に供するなど、画家としての用意周到な一面を見せている。
昭和12年頃から、体調の変化を訴えるようになり、同15年8月24日に他界した。

譜年表
明治18年(1885) 熊本市に生まれる
明治22年(1889) 父(銀行員)の転勤で大阪に転居する
明治27年(1894) 帰熊
明治38年(1905) 熊本県立中学済々黌卒業。東京美術学校日本画家に入学し寺崎広業、結城素明、松岡映丘に学ぶ
明治43年(1910) 同校卒業。卒業制作は《重衝》。福岡県立朝倉中学に赴任する。この頃から「蘇光」と号する
大正3年(1914) 熊本県立中学済々黌に転任。号を素光と改める
大正5年(1916) 球磨郡大村の横穴古墳を発見する
大正6年(1917) 熊本県教育会より史跡調査委員に任命される


参考 熊本の美術

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